嵐の前の静けさだとしてもこんなまっさらな気持ちになれてうれしい。

何を信じたいか、何を信じるかは自分で決めていい。
これは年を重ねて分かったこと
何度繰り返しても物語が終わっても私の人生は続くけど
それでいい、多分終わらないんだよこれ。
点線に戻るんだよ
行きつ、戻りつだね。
憎しみの対象から凪いでいられるようになるのだろうか。

底抜けに青い8月の空を見ているとやっぱり戦争のことを考えてしまう。冷たい一瞬

一旦思考停止。
アゼライン酸クリームがいい感じ、たまに塗りすぎる

暑すぎる気温頭おかしい
暑さで発狂、ひとごとではない


素麺二束って微妙にあまる

日々おちこんで、人間って嫌と思いながら息をしている。

7月終わるらしい。狭間にいるなあ、と思う。死んでいるよりマシになりたいけど、生きているより死んでいるほうがマシみたい。
インターネットには何にもないのにね。
全部が遠い昔に過ぎ去って、私もうるさいホームに駆け込まなければいけないのに、高架で日陰に潜んでる。今すぐ溶け込んでしまえたらどれだけ楽だろう。
こんなものは投げ捨てて忘れてしまおう
ずっと口角だけ上げていればいいのかな 折れた先でも嫌だと思う心を失くしても、明るい心を無くしても。

キズパワーパッドが痒い
傷は一応治ってきてはいるっぽいんだけど、パッド周辺がかゆいかゆい。縁の粘着で何もしていなくてもかぶれるしあせもが大変。夏に怪我なんてするもんじゃない。
皆さん炊飯器の蒸気にはお気をつけて

極もちって美味しいけどあんまきかカステラかって感じの仕上がりになる

そういえばこの前早朝に蝉の音がして、いくら冷房の効いた室内にいるとはいえ今年初めて聞いたな〜と思った。
台風で気温下がるまでどこにいたんだろう
夏の雨は割と好き。嫌いじゃない

写真フォルダざっと見返したら撮ったはいいがどこにも上げずそのままにしている物たちが結構あったから載せたりしておこうかな。
去年あたりの私はまったく語る言葉を持っていなかった。
どこにいても地獄だ

これは可能性、希望の話だけど、
もしかしたら、ほんとうに
可塑性はあるのかもしれない。
少し前まで心に可塑性があるなんてこと誰が証明できるんだろう、と思っていたけれど、もしかしたらそれはほんとうにあるのかもしれない。
あるのかもしれない

雑記

プロテインってそのまま飲んだら不味いけどプロテインクッキーにすると意外とかなりいけるかも。クッキーというかこれほぼラスクだけど

最近になって夏目友人帳漆をみている。
いや凄いね6話凄すぎる。やっぱり芝居が上手いのって嬉しいから…
構成とライティングもいいの力入ってるな〜と思ったね。

てかさー、やっぱ7期的場を萌えキャラにしすぎてる(嬉)
依島とかいう萌え萌え美おじさんもいるし....声と作画好きすぎるな。
依島さんの腕、妖怪とかじゃなくてゴールデンアームの可能性あるしな。ゴールデンアーム今晒してもうた、ごめんなオサムちゃん約束守れへんで....


ほんで、ワートリが面白すぎる
戦闘試験やっと始まるのワクワク止まらんよね。一体何年かかるのだろうか…
始めたからには終わるんだろうけど…

今年の頭にワールドトリガー読み始めて急速にハマっていったんだけど、マジでアツい。

いや面白すぎる…

面白すぎる……


上記今現在now熱いジャンルあまりにも2025年じゃなさすぎておもしろい。そういうこともある。


一年ってあっという間だ。

最近、殊に時間は止まってくれないのだとよく思う。時間はずっと流れていて、同じ場所に留まらせてはくれないんだな、と。それがとても怖い。

どこまでいけるかな。

日記

この人たちは絶対的に私の味方になることは無い、と気付いたときから視界がくらい。

当たり前といえば当たり前なのかもしれない。

昔のインターネットの記録をみると、あと2年がんばったら、あとさんねんがんばったら、なんさいになったら。しんでもいい、それを自分に許そうというようなことが書かれているのだが、いまもまだ、いきている。息はしているが、いきてはいない、といえるかもしれない。

たまにかまってちゃんの動画をみると何故かやけにまともに歌を歌っていて、歌詞を明瞭に喋っていて、嗚呼、大人になってしまったんだな、と思っていた。ようやくファーストテイクの動画を最後まで見れて、まあそれでもいいのか、と思った。私のかまってちゃんはちばぎんが抜けてしまうのとほぼ同時におわってしまっていて、だから仕方のないことなんだけれども、の子さんは大人になってしまったのだ、と一緒に行っていた友人と疎遠になってしまっている今を含めて淋しい気持ちがしていた。
どうにもならないこともどうにもできないこともあって、だがそれでも皆日々をがんばってやっていて、だからわたしも蹲っていないで耳を塞ぐのをやめて頑張らないといけないと思うのだが、この抱える辛さがあまりにも他の人間とは前提が異なっているのではないか、という疑念が消えなくて、自分の足元を眺めるのを辞められない。しかしこの主張は頑張って立ち上がって走り出して並び立たなくては声に出すこともはばかられるようなこと、なのかな、分からないな。でも流石に、そろそろ、形だけでもわらえるようになったほうがいいんだろうな、たぶんきっとそう。
物語を読んでいると楽で、だから幼い頃の私は楽だったのかな。人のこころを得た後だとよく分からない。物語とその人に向き合っているとき、頭の中のよく知らない場所が燃えるように活性化していると思う。私は多分、ここを燃やすのを辞めないほうがいいんだと思う。たとえそれが逃げの手段であっても。そこに逃げながら生きた方がきっと、結果的に良いほうに進むような気がする。わかんないけど、
どうにもよくないな、という時、しばしば合奏のゆめをみる。現実、もう結構いい年齢だと思うのだが、夢のなかの年齢はさまざまであっても合奏という場所に帰っている。一応、他の場所もあるのにやはり13だか14だかの頃の景色になっている。寝ても覚めても週6だか週7でやっていた事なので、それはそうなのだが、やっぱり楽しかったのだと思う。戻れる訳でも戻りたい訳でも無いけれど、多分、苦しくなる前だったからなのかな、と今書いていて思った。このぐにゃぐにゃの世界の中で息が出来る場所が見つかるといいと思うことしかできない、今の私には。
普通じゃないのに普通のフリしていきるのは苦しいにゃあ